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漢詩で綴る旅だ
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東海道・山陽道 > 第六節 > 三十一 関ヶ原桃配山偶感

旅: 「東海道・山陽道」 第六節

名古屋 → 一宮 → 関ヶ原 → 彦根

三十一 関ヶ原桃配山偶感

o桃配山…昔、壬申の乱にて大海人皇子(おおあまのおうじ)(天武天皇)は野上の行宮から、ここに布陣し在野の協力を得て桃を配り兵の士気を高めた。この故事に因んで、家康もこの丘陵地を最初の陣地と定めた。
o妖氛…何か悪いことが起こりそうなあやしい気配。
o吹断…風がものを吹ききる。
o庶山…石田三成の笹尾山や小早川秀秋の松尾山など西軍の布陣した伊吹山塊の関ヶ原に散在する小丘、小山。
o伝唱…唱え伝える。
o帷幄…大将の陣営。
o畢竟…つまるところ。結局は。
 

詩意

 何かことが起こりそうな妖しげな風がまわりの山々から吹き付けてくる。言い伝えでは昔、壬申の乱の時、ここで桃を兵士に配って志気を高めた所とか。(家康はゲンをかついでここを陣地とした)
 しかしつまる処は家康が将に将たる器であったということだ。この戦場に勇躍して、家康は雌雄を決したのである。

 

解説

一宮から四十キロ余を歩いて関ヶ原に入った時は今にも雨が降り出しそうな夕暮れだった。
特に北の方の山塊に懸かる黒雲は妖しげで、戦雲を暗示させるかのようで印象に残る。
 歩いている国道沿いに桃配り山はあって徳川の葵の旗が連立していた。
 小さな丘であったので上ってみた。
そこから眺められる、なだらかな斜面一帯が天下分け目の古戦場である。
今は民家が建ち並んでいる。暫時、遙かな思いを致した。
 関ヶ原の戦いは数の上でも西軍が有利に布陣したが、所詮諸将の集まりに過ぎない。

 ここに一つの逸話を思い起こす。
 家康は西軍が起こること必定とみて、
大阪城を出発して伏見城の鳥居元忠と永久の別れを成している。
鳥居元忠は捨て石となる覚悟であったが、その通り見事に全滅するまで戦い抜いた。
 家康は人をこのようにまで動かした。
天下分け目の戦いは、結局は東軍が将に将たる人を以て勝利したことを思うのである。

 さて翌日、西に少し行ったところで「不破の関」跡を見た。
日本最古の三つの関所の中の一つという。
関ヶ原は太古に壬申の乱の歴史的な戦場であったことと言い、ここは近畿に到る要衝であったのだ。

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