TOP > >
array(2) { [0]=> object(Tabi_Vo_Category)#182 (1) { ["_attr":"Ao_Vo_Abstract":private]=> array(10) { ["id"]=> string(1) "1" ["uid"]=> string(1) "1" ["parent_id"]=> string(1) "0" ["title"]=> string(21) "東海道・山陽道" ["note"]=> string(147) "団塊の世代が歩き旅を初めてやってみた
漢詩で綴る旅だ
東海道・山陽道を73詩の漢詩で綴る吟行記" ["depth"]=> string(1) "0" ["sort"]=> string(1) "0" ["created"]=> string(19) "2011-07-07 15:41:04" ["modified"]=> string(19) "2012-02-22 18:09:55" ["delete_flag"]=> string(1) "0" } } [1]=> object(Tabi_Vo_Category)#177 (1) { ["_attr":"Ao_Vo_Abstract":private]=> array(11) { ["id"]=> string(2) "15" ["uid"]=> string(1) "1" ["parent_id"]=> string(1) "1" ["title"]=> string(9) "第十節" ["note"]=> string(180) "岡山 → 倉敷 → 福山 → 尾道 → 本郷 → 西条 → 広島 → 宮島口 → 岩国 → 熊毛 → 新南陽 → 小郡 → 厚狭 → 門司港 → 八幡 → 帰宅" ["depth"]=> string(1) "1" ["sort"]=> string(1) "0" ["created"]=> string(19) "2012-05-21 20:20:10" ["modified"]=> string(19) "2012-05-22 12:20:10" ["delete_flag"]=> string(1) "0" ["is_current"]=> int(1) } } }
東海道・山陽道 > 第十節 > 六十二 功山寺懐古 功山寺に於いて高杉晋作を詠ず

旅: 「東海道・山陽道」 第十節

岡山 → 倉敷 → 福山 → 尾道 → 本郷 → 西条 → 広島 → 宮島口 → 岩国 → 熊毛 → 新南陽 → 小郡 → 厚狭 → 門司港 → 八幡 → 帰宅

六十二 功山寺懐古 功山寺に於いて高杉晋作を詠ず

〇功山寺・・・長府川端町に建つ。曹洞宗、一三二七年の創建。大内氏の終焉の所でもある。

〇屈子・・・楚の屈原。「離騒」の詩を作って無限の憂愁を述べる。

〇宋瑞・・・南宋の忠臣、文天祥。字が宋瑞。元と戦って捕らえられては獄中で「正気の歌」を作り、処刑されるま  で敵に屈しなかった。

〇回天・・・天下の形勢を変えること。

〇義挙・・・正義のくわだて

〇壮胆・・・勇ましい肝っ玉。  ※幕府が二回目の長州征伐を行おうとする頃、長州は抗戦派と恭順派とに藩 論が二つに分かれた。少数派であり抗戦派の高杉はこれを統一するため。功山寺に決起した。彼の必死の 呼びかけに呼応したのは奇兵隊のわずか八十名であったという。功山寺には三条実美ら五卿が潜居されて いたが、その五卿に向かって「長州男子の肝っ玉をとくとご覧そうられ!」と口上した。クーデターは成功し、 やがて一気に倒幕へと歴史は向かった。

詩意

「『離騒』を残した屈原の深い憂いに、『正気の歌』を残した南宋の忠臣文天祥の魂を見よ! 今は回天の義挙があるばかりで、ここに倒って更にまた何かを論じようというのか。」

高杉晋作は断固として行動に移ったが、この英雄の勇ましい肝っ玉というのを後世の人は知っているのだろうか?立ち上がった同志は少なくなかったが、五卿が潜居されるこの功山寺に、彼は単騎堂々乗り入れ革命の決起を宣言したのである。

解説

「長州男子の肝っ玉をとくとご覧あれ!」

雲をも動かす雷電の如き気迫こそ、時空を超え、後世の我々を感動させてならない。一代の英雄をながれむば痛快である。長州の風雲児・高杉晋作、一つの時代をまさに風を起こし雲を巻いて短い生涯を生きた。彼の縦横無尽の活躍の中でも、最も重要な意味合いを歴史に残したのは、この「功山寺の決起」であると言われている。幕末の動乱という舞台も山場にさしかかった頃、彼の天賦の才覚と死生観は遺憾なく発揮された。

尊王攘夷運動が、とりわけ京都での死闘が繰り広げられる中、長州藩は特に突出した藩であった。中でも、吉田松陰門下は進取の気概にあふれ、初めより革命の色は鮮明である。長州の先鋭化した策謀は幕府側は勿論のこと、時代の主導権を争う意味で薩摩藩をも恐れさせた。為に政変は起こり、三条実美ら長州寄りの公家と共に京都を逐われる。その後の禁門の変、外国船砲撃等々、勤皇思想による反幕の動きは激越そのものであった。

しかし幕府による第二次長州征討への動きが始まった時、この長州にして、藩自体としては幕府を恐れる旧体制派が大方を占めているのが現実であった。高杉は従来の協力者である大庭伝七に遺書を送って、死を覚悟して決起に臨んだのである。

ページトップへ